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日本人の的外れな「リベラルアーツ論」 リベラルアーツとは何か(上)

山田 順 :ジャーナリスト
山田 順やまだ じゅんジャーナリスト1952年、神奈川県横浜市生まれ。立教大学文学部卒業後、1976年光文社入社。『女性自身』編集部、『カッパブックス』編集部を経て、2002年『光文社ペーパーブックス』を創刊し編集長を務める。2010年からフリーランス。現在、ジャーナリストとして取材・執筆活動をしながら、紙書籍と電子書籍の両方のプロデュースも手掛ける。著書に『出版大崩壊』『資産フライト』『出版・新聞 絶望未来』『2015年 磯野家の崩壊』などがある。


日本人はどうやって日本人になるのだろうか? そんな誰もが意識したことがないことを、グローバル化という視点でとらえていくとどうなるだろうか?21世紀のグローバル化が私たちに突きつけている問題は、国際標準語(英語)を話す国際人になることではない。日本人という確固たるアイデンティティを持って、世界を舞台に活躍できる人材になることだ。
しかし残念ながら、日本で日本人の両親から生まれ、日本の教育を受けて育つと、真の日本人にならない。一人娘をアメリカと中国の教育で育てたジャーナリストが、その経験を基に、日本人とは何かを問いかける。
ある女子学生からのメール
この連載を始めて、今日までさまざまな反響があった。なかでも、「グローバルエリートは見た!」のムーギー・キムさんほどではないが、罵詈雑言、中傷の嵐で、ネトウヨの皆さんから「深く愛されてしまった」ことは、本当に貴重な体験だった。

ただ、それ以上に貴重だったのは、たとえば、アメリカのリベラルアーツカレッジに留学中の女子学生から、次のようなメールをもらったことだ。

以下、要約して紹介してみたい。

"What makes you Japanese?" "What does it mean to be Japanese?" アメリカでリベラルアーツ教育を受ける中で私はこの質問に初めてぶつかり、まだ答えは出ていません。
大学の哲学などのクラスで国とは何か、アイデンティティとは何か、などさまざまに学ぶ中、"What makes you Japanese"と聞かれ、答えられない自分に気づきました。日本社会にいると、〈日本人〉や〈日本社会〉が当たり前になってしまい、このような問いかけをする機会はほとんどありません。なので、連載のテーマとしてこの質問・問題提起をされたことは、非常に重要で意味があることだと感じています。
記事の中で「真の日本人」という言葉を使われていますが、「真の日本人」とは、“真に国際社会で日本人として生きていく人”といったニュアンスで使っておられるのではと、第3回目までの記事を読んで感じました。“グローバル社会で日本人として生きていくためには”、といった文脈で記事を書かれていると思うので、それを“日本社会で日本人として……”の文脈で読む人がいると、誤解や批判はある意味当然なのかな、と思います。そしてその「日本社会で……」の文脈で読むマインドセットの人が、残念ながらまだ日本人の大半なのかな、と感じます。
私が書いたことの真意を、ここまで理解してくれたことに感激して、思わず、返信メールを出した。なぜなら、彼女はさらに、次のように私が言いたいことを指摘してくれたからだ。

ただ、「異文化に対する知識・理解」だけでは、「日本に対する健全な愛国心、郷土愛」をつくるのに不十分では、と思いました。
異文化に対する知識は、本や教科書、さらにはネットで簡単に得られます。しかし、そうやって得た知識のどれほどが実際に身に付いているでしょうか。また、異文化に対する理解も、学校の授業や本、ネットで得ることが可能です。少なくとも、表層上は理解できると思います。しかし、「日本に対する健全な愛国心、郷土愛」を築くには、〈異文化に実際に触れ、体験すること〉が大事だと思います。
「異文化に対する知識・理解」も大事ですが、〈異文化に触れること〉や〈異文化の中に身を置くこと〉が、自国の文化を再認識したり、健全な郷土愛を築くうえで最重要なのではないかと思います。
私も、ネトウヨの人ほど英語が使えるようになり英語で他国の人と議論すれば、2chで叫び続けるよりもずっと価値があるのではないかと思います。またネトウヨの人ほど、異文化に対する知識はあるものの、実際に異文化に身を置いたことはなく、頭でっかちで語る傾向があるように感じます。

というわけで、今回は、このメールをくれた女子学生が学んでいるリベラルアーツカレッジについて書いてみたい。というより、そこで行われるリベラルアーツ教育が何かということを書いてみたい。

というのは、インターナショナルスクールで教育を受けることの延長線上には、選択肢のひとつとしてリベラルアーツカレッジへの進学があり、また、リベラルアーツ教育はグローバル人材をつくるための基礎教育でもあるからだ。学生たちは、リベラルアーツ教育を通して自身のアイデンティティを確立していく。

一般教養とリベラルアーツは別物だ
この「東洋経済オンライン」でも、これまでリベラルアーツカレッジが何度か取り上げられている。

しかし、その取り上げ方は、私に言わせてもらうと、中途半端だ。たとえばまず、ハーバードなどの名門大学と比べると、日本での知名度が低いせいか、「知られざる一流大学」というような表現でひとくくりにされている。また、その教育の中身は、日本の大学で行われている一般教養と同じようなものと解釈されている。さらに、リベラルアーツカレッジの最大の特長は少人数クラスにあり、そのため教育の密度が濃いというように言われている。

そしてここに、最近では、NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン新島八重の夫で同志社大学の創設者の新島襄が、リベラルアーツカレッジの名門Amherst College(アマースト・カレッジ)の最初の日本人卒業生だというエピソードが添えられて、日本でのリベラルアーツカレッジのイメージが出来上がっている。

しかし、このような見方はみな的外れで、リベラルアーツの本質を語っていない。リベラルアーツは、「一般教養」と言ってもいいが、日本の大学の一般教養とはまったく違うものだからだ。

では、どこがどう違うのだろうか?

これを説明するために、まず、欧米と日本では、そもそも学問のとらえ方自体が違うということから述べる必要がある。

現在、日本の大学は、東大をはじめとしてグローバル化に必死に適応しようとしている。9月入学の実施、推薦入学制度の導入、英語による授業の拡大……などが、今後、確実に実施されようとしている。最近では、TOEFLが入試に採用されるという話も持ち上がっている。

しかし、これらの改革をいくら進めても、真のグローバル化は達成できないだろう。なぜなら、日本の大学で現在行われている教育そのものが、根本的に欧米の学問体系からズレているからだ。

心理学科が文学部にあるのは異常
たとえば日本では、大学に入るとき、大学そのものではなく、志望大学の学部ごとに入学試験を受けなければならない。また、その学部には、大ざっぱに「文系」「理系」の区別があり、心理学や経済学は一般的に「文系」と言われている。

ところが、アメリカの大学は、大学そのものに出願して入学し、日本の学部にあたる専攻(メジャー)を決めるのは2年時(ソフォモア)を終えてからだ。また、心理学や経済学は、日本と違って理系に分類されている。

日本の大学には、たとえば文学部心理学科というものがある。しかし、欧米の学問体系からいくと、心理学科が文学部にあること自体が異常である。

さらに、日本では最終的に出身学部はあまり問われない。社会に出てから着いて回るのは、どこの大学を出たかという「大学名」である。ところが、アメリカでは、大学名より、どんな専攻をしたかのほうが重要で、続いて、その学位(degree)が「博士」(PhD)、「修士」(Master)、「学士」(Bachelor)のどれなのか、そして、その学位をどこで取得したか(Where did you get it? :つまり大学名、教育機関名)が問われる。

いったいなぜ、これほど日米で大学教育のとらえ方が違うのだろうか?

日本の高等教育は、明治期に始まっている。日本の名門大学の多くが明治期に設立されている。このとき、欧米の教育システムを日本に移植する際に、数々の誤解、勘違いが生じたためだと思うが、私は詳しくは知らない。

ただ、ここで重要なのは、欧米との違いをこのまま放置しておくと、本当のグローバル化などできないということだ。

そして、リベラルアーツが何かも、なぜリベラツアーツ教育が重要なのかも、理解できなくなくなるだろう。

日本と欧米で教育システムが違っても、「それは文化の違いなのだから仕方ないではないか」という意見もある。しかし、経済学や心理学を文系、文学部の中に心理学科があるというようなことを続けていていいのだろうか?

現在、世界の高等教育は、共通化、統合化が進んでいる。これは、グローバル化による影響で、高等教育においてもグローバルスタンダード(世界基準)を決めないと、何よりも人材の評価ができなくなるからだ。

グローバル化が始まる前まで、教育は、各国が独自で国民に提供するものだった。しかし、グローバル化した今の世界では、各国が独自で教育をやり、そのプログラムに沿って学位を認定していては、そこで育つ人材には、当然、バラツキが出てしまう。そうすると、最も困るのは企業である。

学問体系は欧米にそろえるしかない
同じ「大学卒」といっても、アメリカの大学卒、日本の大学卒、中国の大学卒、フランスの大学卒では、どこがどう違うのか? たとえば、専攻が経済学としても、日米ではとらえ方が違うのに、同じ評価でいいのか? 心理学を学んだら日本では文系扱いになり、アメリカだと理系扱いになる――こうしたことがハッキリとしなければ、企業は人材を採用できない。国内だけでビジネスをしている企業は別として、グローバル展開している企業は特に困る。

そこで、各国の大学を比較して、その教育の質、レベルを測る「世界基準」が必要となった。現在、この動きは急速に進み、民間機関や国際機関を中心にしてガイドラインづくりが行われてきている。

たとえば、UNESCO(ユネスコ)やOECD(経済開発協力機構)などがその旗振り役となった「大学の国際的な認証評価制度」や「タイムズTHE-TR世界大学ランキング」などがある。

この大学ランキングで、日本の大学は総じて順位が低い。上位20校はほぼ欧米の大学が占めている。これは、日本の大学の教育レベルの問題もあるが、もっとも重要なのは教育自体が欧米とは異質だという点だ。要するに比較しようにも比較できないことが多すぎるということである。

つまり、グローバル化するなら、日本の教育のよさを残しつつ、学問体系だけは欧米にそろえるしかないと思う。

アートとサイエンスの違い
日本と欧米との学問体系の違い。もっと平たく言うと、科目の違いに私が気がついたのは、娘がインターに通う中で、「おや、なにか変だ」と思うことが多かったからだ。

たとえば、リベラルアーツのアーツは「arts」である。単数だとアート「art」だ。日本でアートと言うと、私たちはすぐに「芸術」を思い浮かべる。そして、学校の科目としては「美術」や「音楽」を思い浮かべる。

ところが、「歴史」も「地理」も「文学」もみんなアートなのである。

アメリカの大学や大学院を卒業して授与される学位(degree)には2種類ある。「A」がつくものと「S」がつくものだ。「A」はアート(art)の略で、「S」はサイエンス(science)の略である。

たとえば、大学を卒業すると「学士」(Bachelor:バチェラー)がもらえるから、学位はメジャーにした科目により「BA」(Bachelor of art)か「BS」(Bachelor of science)のどちらかになる。

そこで、たとえば歴史を専攻したとしよう。この場合、大学卒業時にもらえる学位は「BA」である。では、心理学を専攻したとして、もらえる学位は何だろうか?「BS」である。歴史を専攻すると美術や音楽などと同じアートの学位がもらえるが、心理学を専攻するとサイエンスの学位になってしまうのだ。

日本の感覚からいくと、心理学は文系だから、アートのほうではないと変だ。しかも、サイエンスといえば、日本の感覚からすると「理科」とか「科学」である。とすると、なんで心理学が理科と同じなのだろうか?

私も最初は、このことを理解できなかった。しかし、ここでこんがらがってしまうと、欧米の学問体系は理解できない。私がこんがらがりながらも、「そうか」と思い当たったのは、アートもサイエンスも、その言葉から私たち日本人が思い浮かべることと、アメリカ人が思い浮かべることは違うではないかと気がついたからだ。

どうやら、アートは芸術ではない。サイエンスも理科や科学ではないということに、私は、あるとき気がついた。

私の娘は3歳から英語で教育を受けているので、アートと言えばそのままアート、サイエンスと言えばそのままサイエンスと受け取る。アートを日本語に訳して「芸術」「美術」、サイエンスを「理科」「科学」とは受け取らない。この当たり前のことに気がついて、ようやく私の疑問は解けた。

つまり、そもそもアートやサイエンスの日本語訳が違うのだ。訳が違うというのは、その言葉が持つ概念が違うということである。

アートとは、人間がつくったもの
それでは、アートとは何なのだろうか?

それは、あえて日本語に置き換えれば「人工」ではないだろうか? つまり、人間がつくり出したものすべてがアートである。実際、英英辞典を見ると、「art」はたいてい「human effort to imitate, supplement, alter, or counteract the work of nature.」のように説明されている。

芸術や美術はアートであることは間違いないが、本来のアートはもっと広い意味を持った言葉なのだ。

これは、アートの反対語は何か?と考えると、より理解できる。アートの反対語は「nature、ネイチャー」(自然)である。自然は、人の手が加えられていないものだからだ。

ではネイチャーとは何だろうか?日本人なら、「自然」と聞けば、空や海、山や森をすぐに思い浮かべる。『広辞苑第五版』(岩波書店)によると、「おのずからそうなっているさま。天然のままで人為が加わらないさま。あるがままのさま」とあるから、このイメージで間違いない。

ところが、英語を話す子供たちは、ネイチャーを海や空、山や森などとは答えず、「things God made」と答える。これは「神がつくったもの」という意味だ。同じく、アートは「things humans made」(人間がつくったもの)である。

このことがわかって、私は初めて、日本語の世界と英語の世界が根本的に違うのだと知った。

娘が「宗教」の授業で教えられたこと
どこの国の教育でも、小学校1、2年生で、子供たちは自分たちが生きている世界について学ぶ。家族や友達、学校や社会について、基礎的なことを学ぶ。おそらく、この時期に子供たちの基本的な世界観が出来上がると思う。

娘が通ったセントジョセフは、明治期にカトリックのマリア会によって創設されたインターだから、1年生から「リリジョン」(宗教)の時間があった。


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娘が小学校1年生(グレード1)の「リリジョン」もクラスでやったドリル。社会の在り方が、キリスト教の世界観で説明されているここに紹介するのは、娘が1年生のときに「リリジョン」の時間でやったドリルだ。ページのタイトルが「God Is With Me When I Learn」となっている。「神様は勉強するときに私と一緒にいます」という意味だ。これでわかるように、子供たちはつねに神と一緒にこの世界にいることになっている。

自然を「神がつくったもの」と答える世界観は、ここで出来上がると言っていい。そして、これが英語世界の基本的な世界観であり、実は、欧米の学問体系も、この世界観に基づいてつくられている。

欧米の学問体系は、大きく2つに分かれている。ここまでのことですでにおわかりと思うが、ひとつがアートで、もうひとつがサイエンスだ。アートとは「人間がつくったもの」だから、これを学び、研究するのがアートの勉強であり、大学や大学院でのアートの学位となる。科目でいうと、文学、歴史、哲学、美術、建築、音楽などだ。これらの学科は、一般的に「humanities」(ヒューマニティーズ)と言われている。

そしてもうひとつのサイエンスは「神がつくったもの」、つまり、この世の中にある人間以外がつくったものすべてを学び、研究することだ。したがって、日本語の「科学」「理科」という訳語は意味が狭すぎると言っていい。

むしろ、広く「学問」ととらえたほうがわかりやすいだろう。

サイエンスの目的とは何か
このように見てくると、なぜ、経済学や心理学が文系ではなく、理系なのかということがわかると思う。

文学部心理学科に関して言えば、そもそも文学はアートであってサイエンスではないから、心理学のように神がつくった人間の心理のメカニズムを研究する学問が、アートの学部にあってはおかしいということになる。

サイエンスについてさらに言うと、その目的は、神がつくった世界(=自然界)を貫く法則を見つけ出すことである。

そして、サイエンスは、2つに大きく分かれている。ひとつが「ナチュラル・サイエンス、natural science」(自然科学)で、もうひとつが「ソーシャル・サイエンス、social science」(社会科学)である。ソーシャル・サイエンスでは、対象が自然界でなく、自然界の一部である人間社会が対象になる。したがって、心理学は社会科学ということになる。

同じく、経済学も社会科学である。経営学も、政治学も同じく社会科学だ。しかし、日本ではこれらが、なぜか文学や歴史などと同じようにとらえられ、「文系」となってしまうのである。

日本と欧米の学問体系が違う点はまだある。「医学(Medicine)」と「数学(Mathematics)」の位置づけだ。

サイエンスには、前述した二大分類のほかに、「アプライド・サイエンス、applied science」(応用科学)と、「フォーマル・サイエンス、formal sciences」(形式科学)がある。前者のアプライド・サイエンスの代表が医学である。ところが、日本では医学を自然科学と見なすことが多い。

また、一般的にエンジニアリングと言われる「工学」「工業技術」もアプライド・サイエンスである。

そして「数学」だが、これもなぜか日本では自然科学としてしまう。しかし、数学自体は自然界には存在しない。人間がつくったものである。だから、サイエンスとは見なせない。そこで、学問をするためのツールという位置づけとなり、フォーマル・サイエンスに分類をされるのだ。

学問をするためのツールとう位置づけでは、現代の「コンピュータ・サイエンス」(Computer science)もまた、フォーマル・サイエンスである。しかし、日本ではこれがアプライ・ドサイエンス(応用科学)の工学部に組み入れられ、そこの学科になっていたりする。工学部の中にコンピュータ・サイエンスがあるのは、欧米人にとっては理解できないだろう。

リベラルアーツとは、「基礎学問」
このように見てきて、ここで、やっとリベラルアーツについて説明するのが可能になる。

リベラルアーツとは、ひと言で言えば、西洋世界の学術・学問の基礎である。欧米の高等教育では、このリベラルアーツがすべてのアート(ヒューマニティーズ)とサイエンスの「入り口」と考えられており、これらの科目を履修した後にメジャー(専攻)を決めるシステムになっている。

ところが、日本では大学入学以前に志望学部(専攻)を決めて、入学試験を受けるかたちになっている。これでは、あべこべだ。

また、リベラルアーツを日本では「教養学」と訳す例が多い。また一部の大学では「一般教養」として学部名になっているところもある。しかし、「教養」とう日本語の一般的な意味は、「社会生活を営むうえで必要な学術、文化、歴史、芸術などに関する広い知識」というようなことだろう。たとえば、あの人は「教養がある」と言ったときは、このような意味になると思う。

とすると、リベラルアーツをより正確に日本語にすれば、「教養学」より、「基礎学問」のほうが最適ではなかろうか?

というわけで、グローバル教育は、英語で授業をしたり、9月入学を実施したりと、かたちだけを整えても達成できないことが、わかってもらえたと思う。

もし、今後、日本の大学が本当にグローバル化したいなら、学問体系を欧米式に整え直すこと、本格的なリベラルアーツ教育を導入すること、そのうえで徹底して世界から留学生を集めることが必要だろう。もちろん、日本の大学教育のいいとろは徹底して残すことも大事だ。

このようにして、学内にインターナショナルコミュニティをつくれば、自然にグローバル人材は育つはずだ。今後の日本を切り開いてくれる“真の日本人”も育つだろう。

※続きは4月24日(水)に掲載します


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