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間違っていませんか?―「ウツ」の人への接し方

2009年5月13日(水)08:40

――「うつ」にまつわる誤解 その(15)

「うつ」で療養中の人に対して、ご家族など周囲の人から「どう接したらよいのでしょうか?」「何か注意すべきことはありますか?」といった質問を受けることがよくあります。周囲の方たちにとってみれば、「うつ」の状態の心理は理解しがたいものでしょうから、接し方について戸惑ってしまうのも無理はありません。

しかし、よく言われているような「励ましてはならない」といった単発のマニュアルに従ってみても、それが表面的なものに終わってしまうことが多いようです。

そこで今回は、周囲にいる人たちが「うつ」について少しでも理解を深め、表面的でない接し方ができるためにはどんなことが大切なのか、考えてみましょう。

「うつ」の方に対する間違った接し方には実に様々なものがありますが、いずれも「うつ」が起こるからくりが理解できていないところから来ている問題だと思われます。

第1回でも触れましたが、「うつ」とは、「頭」の一方的な独裁に対して、「心」(=「身体」)がある時点でたまりかねてストライキを決行した状態です(図参照)。



「頭」とは《理性の場》であり、自己コントロールを志向する《意志の場》でもあります。それに対して「心」(=「身体」)の方は、大自然の原理を持っていて、欲求や感情を生み出す《意欲の場》です。そして、人間の生き物としてのエネルギーの中心は、ここにあります。

 このような人間の基本構造と「うつ」のからくりが理解できれば、なぜ「励ましてはならない」と言われるのか、そのエッセンスがはっきり見えてきます。

 つまり、「励ます」ということは、「頭」の《意志》による自己コントロールを再び強化せよと言っているわけですから、ストライキに対して軍隊を向けるようなもので、事態が泥沼化するのは明らかです。しかも患者さんの「頭」は、「自己コントロールが十分に効いて有意義な活動ができるような自分でなければ、自分には価値はない」という考えを持っていることが多いため、励まされても思うように動かない自分自身を情けなく思い、いっそう自己嫌悪に陥ります。これが場合によっては、自殺願望を強めてしまう恐れもあるわけで、だからこそ「励ますこと」が危険なのです。

 しかし周囲の人は、表向きは「励まし」たりしなくとも、一日でも早く「有意義な活動」ができるようになってほしい、と期待して待っていることが多いものです。もちろん、患者さんの一日も早い社会復帰を願うことは、現代社会に生きる周囲の方々にとっては、ごく当たり前な気持ちでしょう。

しかし、残念ながら「うつ」はそれを大目に見てはくれません。なぜなら、「うつ」という状態をひき起している「心」(=「身体」)は、先ほど述べたように大自然の原理で動いている場所だからです。

 現代社会が重きを置くような「人間は働くべきものだ」「少しでも無駄なく人生を進めるべきだ」「毎日を有意義に過ごすべきだ」「常にキャリアアップを目指そう」「時は金なり」「寸暇を惜しんで勉強せよ」「努力してこそ成功する」「常に右肩上がりの成長が望ましい」等々の価値観に、大自然由来の「心」はもうすっかりうんざりしていて、その気配には相当敏感になっています。

 厳しい指摘かもしれませんが、患者さんは周囲のちょっとした言葉や気配から、元のままの現代的な価値観や生活に戻るように期待されているらしいことを敏感に感じ取るものです。表面を取り繕っても、ごまかしはききません。患者さんは元々、周囲の期待に過剰なまでに応えようとする傾向がありますから、そのような期待にうまく応えられないことで、焦りと自己否定をさらに強めかねないのです。

「よくなった」と周囲が喜ぶことにも落とし穴が!

 「うつ」の経過において、療養によりエネルギーが回復してきて、見た目には調子の悪さが消えてくる時期があります。周囲の方たちも、明らかに「よくなった」と見えるので、やっと一段落といった気持ちになります。

 しかし、この時期にこそ最も自殺の危険性が高まることが、従来からよく知られています(第11回参照)。それは、いったいなぜなのでしょうか。

 「うつ」の状態が非常に強いときには、すべての意欲が減退しているために行動が全般的に困難なので、危険な行動化も生じにくいのですが、エネルギーが回復してきたときに、意欲が潜んでいた自殺願望と結びついてしまうと、とても危険なのです。

 これは従来からもよく指摘されていたことなのですが、これとは別にもう1点、ともすると見逃されがちなポイントがあります。

 周囲の人に「よくなった」と見える状態であっても、実は、患者さんが再び「周囲の期待に応える」というスタイルを復活させただけであることが、案外少なくないのです。

 エネルギーが枯渇していたどん底の時期には、「期待に応える自分」を演ずることはできなかったのですが、エネルギーがある程度戻ってくると、再びそれを演じてしまうことがあります。特に「自己愛の不全(自分自身を愛することがうまくいっていない状態)」をベースに持っているタイプの方では、「周りの人にもうこれ以上心配をかけられない」と思い、不調時には衝動的に吐き出せていた「うっ積した感情」を、「また吐き出したりしたら、せっかく『よくなった』と喜んでいる周囲を悲しませてしまう」と考え、再び飲み込んでしまうのです。

つまり、周囲が「よくなった」と言って喜んでいることが、患者さんに対して「もう決して逆戻りしたような悪い状態を見せられない」といったプレッシャーになってしまっている場合があるのです。

“望まれる患者像”を演じることも

 周囲の人が表面的に言動だけを整えたとしてもどうにもならないのが、「うつ」の方のサポートの難しさです。

 治療者ですら、自身が現代社会的な価値観に身を置いたまま治療を行っていることは珍しくないので、患者さんはそんな治療者に本心を話すこともできず、「望まれている患者像」を演じ続けていることもしばしば見られる状況です。そんな状況の中で、「心」が発した拒否反応のメッセージを正しく受け取り「うつ」を脱する作業を進めることは、患者さんにとって大変困難になってしまっています。

 右を向いても左を向いても、「有意義に生産的に生きなければならない」「一日も早く社会復帰すべきだ」といった「頭」重視の価値観だらけの社会の中で、もし誰か1人だけでも、そのような価値観から自由な人間が周囲にいれば、患者さんにとっては、その存在が大きな救いになります。

 ですから、周囲の人にできることがあるとすれば、簡単ではありませんが、その人自身が「頭」支配を脱した存在になることを目指すことなのです。

「うつ」は、現代人すべてに警告を発している

 「うつ」という病は、今日もはや、個々人に起こった病として考えることではすまないところまで来ていると思います。大局的に見れば、現代社会全体が追い求めている価値観のはらむ問題や、現代人の不自然極まりない生き方に対する大きな警告のメッセージを、現代の「うつ」は告げようとしているのです。

 およそ人間的とは言えない満員電車に押し込まれて毎日通勤し、機械仕掛けの時計の時間に追い立てられ、効率優先・利潤優先の要請に追い回されて、プライベートを楽しむための方便として仕事に行くはずだったものが、仕事の疲れをとるだけのプライベートになってしまう本末転倒。老後の心配の方に重点がシフトして「今を生きる」ことがなおざりにされ、生きる楽しみの大切な一つであるはずの食事までもガソリン補給のようなものになり下がる。翌日起きなければならない時間のために就寝時間が決められ、すぐに寝付けなければ「不眠症」ということになってしまう……。このような現代人の生活に疑問を抱かないことを「適応」と呼び「正常」と見なし、そこに戻すことを治療のゴールと思い込んでいる現代の医療も、「うつ」の発する警告を真摯に受け取る必要があるでしょう。

 治療者も含め、往々にして患者さんの周囲にいる人間は、「自分は正常だ」という前提を疑うこともなく「うまい接し方」だけを求めがちなのですが、残念ながらそのアプローチは実を結びません。

 「うつ」に本気で関わるということは、患者さんと共に「うつ」が知らしめようとしている現代人へのメッセージを受け取り、自分自身が率先して、より自然な生き方に身を開いていこうとすることにほかならないのです。

 次回は、「自分が何をしたいのかわからない」という悩みについて、考えてみることにします。


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コメント 1

NO NAME

理性と本能の衝突が自己嫌悪そして鬱の起因なのではないかと最近思ったのです。同じような考えがここにあるのはうれしいです。
by NO NAME (2009-07-02 14:15) 

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